2009年06月29日

人類の活動とその変化を研究する学問である

考古学(こうこがく)は人類が残した痕跡(例えば、遺物、遺構など)の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。文字による記録以前(有史以前)の人類についての研究が注目されるが、文字による記録のある時期(有史以後)についても文献史学を補完するものとして、またはモノを通して過去の人々の生活の営み、文化、価値観、さらには歴史的事実を解明するために文献以外の手段として非常に重要であり、中世(城館跡、廃寺など)・近世(武家屋敷跡、市場跡など)の遺跡も考古学の研究分野である。近代においても廃絶した建物(汐留遺跡;旧新橋停車場跡など)や、戦時中の防空壕が発掘調査されることがある。

考古学は、遺物の型式的変化と遺構の切り合い関係や前後関係による層位から出土遺物の通時的変化を追う個々の遺跡の編年を縦軸とし、横軸に同時代と推察される遺物の施文技法や製作技法、表面調整技法などの比較を通して構築される編年論を基盤として、遺物や遺構から明らかにできるひとつの社会像、文化像の提示を目指している。

考古学という名称は、古典ギリシャ語のアルヒャイオロジアから生まれ、英語でアーケオロジー(archaeology)といい、それを訳して「考古学」とした。
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日本では、考古学という言葉自体は明治初期に古き物を好むという意味で好古と記されていたが、古きを考察する学問だという考えからフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男ハインリッヒ・フォン・シーボルトが1879年、日本の学会に贈った著書『考古説略』に、緒言を記した吉田正春が「考古学は欧州学課の一部にして、云々」とのべており、考古学という名前が使われた最初とされている。[1]

佐原真によると「考古学の内容を正しく明確にしたのがハインリッヒ・シーボルトの『考古説略』であることは間違いない」が、「考古学」という名がはじめて現れたのは、1877年(明治10)、大森貝塚の遺物が天皇の御覧に供されることに決まった時の文部大輔田中不二麿か文部少輔神田孝平かの上申書のなかであるという。[2]

2009年06月12日

素朴実在論や直接的実在論によれば

素朴実在論や直接的実在論によれば、脳の行う処理によって人間は直接意識を持っているとされている。間接的実在論や二元論によれば、脳には処理によって得られたデータは存在するが、人間の意識は物理的な事物の上に投影された精神モデルや精神状態であるとされている(ルネ・デカルトの二元論など)。意識に関するこれらのアプローチのいずれが正しいかは常に議論の的である。

直接知覚という考え方は、意識体験が外界に直接的に依存することを説明する新しい物理理論を必要とするかもしれない。しかし、知覚が脳内の世界モデルを通した間接的なものなら、どのようにしてモデルが経験となるのかを説明しなければならない。

知覚が直接的なら、自己認識を説明することが難しくなる。というのも直接知覚という考え方が登場した背景には、内部処理が無限に再帰するという Ryle's regress に陥るのを避けるという目的があった。ロボットの自己認識は明治大学の武野純一教授[2][3]が研究しており[4]、鏡に映った自分自身と別のロボットとを区別できるロボットが開発された[5][6]。直接知覚の立場では、夢や想像やメンタルイメージなどの精神生活に人間が本当には気づいていないとも主張する(これらは再帰に関係するため)。

自己認識は間接知覚の立場ではそれほど問題にならない。というのも、その定義上、人間は自身の状態を認識しているとするからである。しかし、上述したように、間接知覚の立場では Ryle's regress を防いでいる現象を説明しなければならない。人間が間接的に知覚しているなら、自己認識はイマヌエル・カント、ウィリアム・ジェームズ、デカルトの説明する時間経験の拡張の結果として生じるのかもしれない。残念なことに、時間経験の拡張は現在の物理学の認識とは一致していないと言えるだろう。

情報処理とは、状態の符号化である。プログラムと呼ばれる命令列によって示された一連の変換を符号化された状態に対して行う。この符号化された状態は電子の流れによって表されるが、原則として媒体は何でもよく、鉄球や玉ねぎでもかまわない。命令が実装されたマシンも電子式である必要はなく、機械式でも流体を使用してもよい。

デジタルコンピュータは情報処理を実装したものである。その黎明期から、それら機器が意識を持つ日がやってくるかもしれないという示唆はなされてきた。最も早期にそれを真剣に論じた人物としてアラン・チューリングがいる。
物流
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皮膚と体毛
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技術者が意識を持つ実体を作成するにあたってデジタルコンピュータ方式だけを使うなら、強いAIの哲学と関連した問題が生じる。最も重要な問題はジョン・サールの中国語の部屋という思考実験である。それは、情報処理装置の中身は真の意味を理解する必要がないことを示したものである。それは単に電子や鉄球の一群にすぎない。

サールの主張は直接知覚主義者を納得させることはない。彼らは「意味」が知覚するオブジェクトによってのみ見つけられるものであるとする。また、創発主義の概念もサールの主張への反論となっている。創発主義は処理系の複雑さが新たな物理的現象を生むことを提唱している。

人工知能研究では「digital sentience(デジタル直観)」という誤った用語がしばしば使われる。「直観」とは、内的思考なしで知覚する能力を意味する。それは、意識体験がプロセスというよりも状態であることを示唆している。

マシンが任意の環境で意識を持てるかという議論は、一般に物理主義と二元論の対立として描かれる。二元論者は「意識には物理的でない何かが関わっている」と信じている一方、物理主義者は「全ては物理的に説明できる」としている。

2009年06月07日

噂(うわさ)とは、その内容が事実であるかどうかを

噂(うわさ)とは、その内容が事実であるかどうかを問わず、世間で言い交わされている話の事。類義語として飛語(蜚語)・ゴシップ・デマ・流言などがあり、それぞれ下項で紹介する。

飛語(蜚語・ひご)も、根拠のない無責任な噂を意味する言葉で、流言と合わせて流言飛語(流言蜚語)という四字熟語を構成する。

ゴシップ(gossip)とは、巷で伝聞される興味本位の噂話の事を指すが、特にマスメディアにおいては芸能人などのゴシップを、不祥事や醜聞の意味であるスキャンダル(scandal)という表現で伝える事が多い。

デマとはデマゴギー(demagoguery)の略で、政治的な目的を持って意図的に流す嘘のことであり、転じて単なる嘘や噂、流言などを指すこともある。前者の意味のデマを用いる人物のことをデマゴーグという。

噂や流言はしばしば(前者の意味での)デマゴギーだったのではないかと捉えられることがある

流言(りゅうげん)とは、正確な知識や情報を得られず、明確な根拠も無いままに広まる噂のこと。風説、流説ともいう。ある一部での話が連鎖的に広まり、それがやがて全体に広がっていく形態を取る。日本での流言の古い歴史は1600年ごろまでさかのぼる。

日本国内で最も広範に広まった流言に、オイルショックによるトイレットペーパー騒動がある。

1973年11月1日午後1時半ごろ、大阪千里ニュータウンの大丸ピーコックストアの宣伝用の特売広告に、(激安の販売によって)「紙がなくなる!」と書いたところ、突然300人近い主婦の列ができ、2時間のうちにトイレットペーパー500個が売り切れたことから始まった。
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当時は第四次中東戦争という背景もあり、原油価格の高騰により紙が本当に無くなるかもしれないという不安心理から、各地で噂が飛び火し、行列が発生したため、マスコミにも大きく取り上げられ、混乱は全国に連鎖的に急速に拡大した。高度経済成長で大量消費に慣れていた人たちが、初めて「物不足の恐怖」に直面したために起こった騒動とも言われている。ただし、原油価格の高騰と紙の価格高騰に関係はあっても、元々が需要増・供給減による価格高騰ではないのでこの流言がなければ過剰な供給不足になる可能性は低かったと考えられる。

陰謀論の対象範囲は幅広いが

陰謀論の対象範囲は幅広いが、頻発する分野はある程度限られている。通説を様々な角度から否定する意図から、科学、政治、歴史など、分野をまたいだ説へ発展する事がある。また、ユダヤ陰謀論とフリーメイソン陰謀論の様にそれら同士で密接な関わりがあったり、混同される場合もある。

陰謀論は、ある事件に対する政府等の対応や説明の「不可解な部分」を補足説明するものとなる。日本航空123便墜落事故やジョン・F・ケネディ暗殺に関する陰謀説等、事件が有名かつ謎の部分が多いほど、活発に展開される。
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ある団体や個人に対する侮辱や攻撃、人種差別や思想弾圧の背景・動機となる陰謀論もある。例えばナチスのユダヤ人迫害はシオン賢者の議定書に基づくとされる。

悪意を持って発生するものもある。例えば反ユダヤ主義に基づくユダヤ陰謀論や嫌韓感情に根ざすネット上の論争相手に対する在日工作員認定などの差別正当化等である。

ある組織、あるいは対立する複数の組織にとって不都合な真実が明るみに出た場合、陰謀論で説明される事がある。実際に起こった例としては大韓航空機爆破事件における、韓国側の主張した「北朝鮮による爆破」説と北朝鮮側が主張した「韓国による自作自演説」などがある。冷戦時代においては CIAとKGBの間で陰謀論の応酬が展開された。

オウム真理教による坂本堤弁護士一家殺害事件では「我々を陥れる為に公安(又は他の宗教団体)が仕組んだもの」等の陰謀論を主張したが、これは自らの犯罪を隠蔽する為であった。

2009年04月24日

さらなるインディアンの強制移住

1851年、ルター・ブレーク将軍は、インディアンを西にを動かすため、内務長官に任命された。彼は、ジョージアからチェロキーを外すことに成功しており、おそらく、セミノールを取り外す仕事をできた。彼には、賃金へすべての成人男子に800ドル、すべての女性と子供に450ドルの資金を供給していた。彼は、通訳を探しにインディアン準州に行き、1852年3月にフロリダに戻った。彼はインディアンのすべてのリーダーに会うために遠く野原に入って、7月までには16人のインディアンを西部に送った。ビリー・ボウレグスがフロリダにしつこく居座っていたので、ブレークはボウレグスと他の数人の酋長をワシントンに連れて行った。ミラード・フィルモア大統領はメダルをボウレグスに与え、そして、彼と他の3人の酋長がフロリダを去るために有望な協定に調印するように説得した。酋長たちは、ボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨークシティなどを観光させられた。フロリダに戻ると酋長らは、彼らがワシントンで調印した協定を拒否した。ブレークは1853年に解雇され、代わってケーシー大尉がインディアンの強制移住を担当するために戻ってきた。

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1851年1月に、フロリダ立法府はフロリダ民兵の指揮官の地位を作成し、トーマス・ブラウン知事はベンジャミン・ホプキンスをそれに任命した。次の2年間、フロリダ民兵は居留地境界の外にいたインディアンを追跡した。この期間、民兵は1人の男性、数人の女性、および140の豚を捕らえた。民兵に捕まっている間に、1人の年老いたインディアンの女性が、彼女の家族の残りが逃げた後に自殺した。州は、全体の作戦に4万USドルを費やした。

フロリダ当局からの圧力は、さらに一度、行動を取るために連邦政府を押した。ケーシー大尉は、西部に動くようにセミノールを説得しようとし続けたが、運が悪かった。彼は再びビリー・ボウレグスと他の者をワシントンに送ったが、酋長は、移住に同意するのを拒否した。1854年8月、ジェファーソン・デイヴィス陸軍長官は、最終的な闘争にセミノールを向かわせる計画を新たに立てた。計画は、インディアンとの禁輸措置、南フロリダの土地の調査と販売、そして新しい入植者を保護するための陸軍の配置を含んでいた。デイヴィスは、インディアンが去ることに同意しないのなら、陸軍が武力行使すると言った[77]。

1855年後半までには、フロリダ半島に配置された700以上の陸軍部隊があった。その頃、セミノールは、彼らは、彼らに対して増加する圧力に逆襲することを決め、機会が到来したときには攻撃することを決めた。サム・ジョーンズはこの決定の扇動者であったと言われていて、チプコはそれに反対していたと言われる。1855年12月7日、以前に居留地の巡視隊を率いたジョージ・ハートサフ少尉は、10名の兵士と2台の馬車とともにマイヤーズ砦を出発した。彼らはセミノールに遭遇しなかったが、とうもろこし畑とビリー・ボウレグスの村を含む3つのさびれた村を通り過ぎた。12月19日の晩、ハートサフは、その翌日にはマイヤーズ砦に戻ることを彼の兵士に告げた。兵士が翌朝(1855年12月20日)に馬車に積み込んで、それらの馬にくらを置いていたとき、ビリー・ボウレグスによって導かれた40名のセミノールがキャンプを攻撃した。隠れようとしたハートサフ中尉を含む数名の兵士が撃たれた。セミノールはキャンプの4名の兵士を殺して頭皮をはぎ、馬車用のラバを殺して略奪し、馬車を燃やして、数頭の馬を盗んだ。7人の男性(うち4人は負傷)、マイヤーズ砦に引き返した[78]。

この攻撃のニュースがタンパに達したとき、都市の人々は民兵の将官を選出して、中隊を組んだ。新たに形成された民兵は、ピース川流域を行進して、より多くの兵士を募集して、川に沿ったいくつかの砦に配置した。ジェームス・ブルーム(en:James E. Broome)知事は、できるだけ多くの志願兵中隊を組織化し始めた。州には限られた資金があったので、彼は陸軍に志願兵を受け入れさせようとした。ジェファーソン・デイヴィス陸軍長官は、2つの歩兵中隊を受け入れ、そして、およそ260名の兵士の3つの騎馬中隊を取り付けた。ブルーム知事は、国家の管理下に別の400名の兵士を動員しておいた。個人の寄付により、州の軍(陸軍によって受け入れられたものと国家の管理下に残っているものの両方)は一部武装して供給された。ジェシー・カーター司令官は、州の軍を率いるために「軍事のランクのない特別なエージェント」としてブルーム知事によって任命された。カーターが作物を作るのに州の軍の半分を動員したので、彼の唯一の200名の男性が巡視に利用可能だった。騎馬巡視隊は、馬で行くのが簡単な、広々とした平野をパトロールすることを好んだが、しかしそれはセミノールたちに彼らが来ることを分からせた、とタンパの新聞は記事にした

2009年04月06日

19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌

19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(労働歌)などから発展したものと言われている。

1903年、ミシシッピ州のデルタ地帯を旅行中だったW.C.ハンディが同州タトワイラーで、ブルースの生演奏に遭遇。この後、彼によってブルースは広く知らしめられることになった。この年を「ブルースの生誕の年」とする見方もあり、2003年はブルース生誕100年を記念してアメリカ合衆国議会により、「ブルースの年」と宣言された。

1920年、メイミー・スミスがオーケー・レーベルに初レコーディング。これがブルースのレコーディングとしては初と言われている。彼女の"Crazy Blues"は、初年度75,000枚を売り上げるヒットを記録した。

戦前のアメリカにおいて、ブルースは米国深南部からセントルイス、シカゴ、ニューヨークなどへ北上し、各地でスタイルを変えながら発展した。元々ギターの弾き語り中心であったが、都市部に展開するにつれ、ピアノとギターのデュオ形式、バンド形式など、より都会的な洗練された形式へと変わって行った。都市部で展開されたブルースのスタイルをシティ・ブルースという。代表的なミュージシャンは、リロイ・カーなど。しかし都会にあこがれる反面、故郷への想いが強く詩に影響を与えている歌が多い。

シカゴでは、1950年頃からエレクトリックのバンドによるブルースが登場した。デルタ・ブルースを基調とした泥臭いサウンドで、戦前のシティ・ブルースとは一線を画すものであった。このサウンドはシカゴ・ブルースと呼ばれるようになった。その代表格となるのが、マディ・ウォーターズである。ロックンロールの巨匠、チャック・ベリーもこの頃のブルースに大きく影響を受け、後のロックバンドにも受け継がれているといえる。

1960年代初めになると、イギリスへアメリカから多くのブルースのレコードが輸入され、同国でブルースのブームが起きた。その流れの中で、ローリング・ストーンズ、ヤードバーズなど、ブルースに影響を受けたバンドが多く登場するようになった。

日本では、1970年代にブルース・ブームが起こった。

1971年、B.B.キングが初来日を果たす。
1973年にスリーピー・ジョン・エスティスの「スリーピー・ジョン・エスティスの伝説(The Legend of Sleepy John Estes)」がオリコン・チャートに食い込む大ヒットとなる。
1974年、「第1回ブルース・フェスティバル」開催。同フェスティバルは第3回まで開催され、エスティスを始めロバート・ロックウッド・ジュニア&エイセズ、オーティス・ラッシュらの来日が実現した。
日本でも京都、大阪を中心にウエスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団など、ブルース・バンドが登場。日本の独自のブルース・シーンが形成されて行く。

代表的なブルース・アーティスト
戦前ブルース (デルタなど) [編集]
ベッシー・スミス(ブルースの女王と言われている)
W. C. ハンディ(ブルースの父といわれている)
サン・ハウス
ブッカ・ホワイト
スキップ・ジェイムズ
チャーリー・パットン
ブラインド・ブレイク
ロバート・ジョンソン
ブラインド・レモン・ジェファーソン
メンフィス・ミニー
サニー・ボーイ・ウィリアムスンI

シカゴ、モダン・ブルース
マディ・ウォーターズ
バディ・ガイ
エルモア・ジェームス
ハウリン・ウルフ
ヒューバート・サムリン
サニー・ボーイ・ウィリアムスンII
オーティス・ラッシュ
マジック・サム
B.B.キング
アルバート・キング
ジョン・リー・フッカー

テキサス州のギタリスト [編集]
T-ボーン・ウォーカー
フレディ・キング
アルバート・コリンズ
スティーヴィー・レイ・ヴォーン
ライトニン・ホプキンス
ジョニー・ウィンター

チック ぐうわ ラガーマ ヒール 黄砂の時間 ヨル ラジル セルン レイン ピックス フリーク 黄金バッド ランナー ウエポン ハムスライ かいわれ セサミン ガスホ ラスパ ヒップ バレンタ ルナス フェミニ ホガニー オランウー トレイン レッスン キムチ ビーチ サイト リードグ シルバ シフォンケ グッド カプチーノ ヒット フェロ ビーシ 男の街 フリー ミニマム ウンボク りゅうがん オーナー ちりめん ブーケト キレート フレン ドライバー バリュー

2009年03月22日

イギリスでは2mmスケール(1/152)

黎明期 [編集]
第二次世界大戦以前より、イギリスでは2mmスケール(1/152)、9.5mmゲージの鉄道模型を自作するファンがおり、日本でも熱心な工作派ファンが9.5mmゲージや8mmゲージの鉄道模型を自作し、模型工作雑誌や鉄道模型専門誌を通じて紹介されたことが幾度かあった。この当時はHOゲージでさえ超小型とみなされていた時代であり、これらはあくまでも特殊な模型(今で言えばZゲージよりも小さい模型を自作するような感覚か)として存在したに留まる。

戦後、各国共にそれまで主流であった1番ゲージ(45mm軌間)や0番ゲージ(=Oゲージ。32mm軌間)等の大型の鉄道模型から、より小型の16.5mm軌間のHOゲージやOOゲージが主流となり、日本でも16番ゲージとして急速に普及した。

さらに、HOゲージより小さな模型としてTTゲージ(1/120・12mmゲージ)が登場し、ヨーロッパでは製品が発売され、日本でも1960年代初期には自作するファン(日本型は1/105?110程度の縮尺を用いた)が少ないながらも出現。また海外のTTゲージ製品が輸入され売られていたこともあった。しかし間もなくTTゲージより小さな鉄道模型としてNゲージが製品化され、TTゲージは(東欧の一部諸国を除き)衰退することとなる。

世界で最初のNゲージとされる電動模型システムは、1960年代初頭、イギリスにおいて「ロンスター」ブランドで発売された「Treble-O-Lectric」シリーズ(1/152・9mmゲージ)であるが、西ドイツ(当時)の「アーノルト」が1962年に1/160・9mmゲージを発売したのが、Nゲージの本格的スタートであるとされており、同社はこのゲージのパイオニアとして名を残すこととなる。

この新しいゲージは、軌間である9mmの9(ドイツ語でneun、フランス語でneuf、英語でnine)の頭文字を取り、「Nゲージ」と名付けられた(なお、イギリスでは当初は「OOOゲージ」と称していた。また日本では当初「9mmゲージ」と呼称されており、「Nゲージ」という呼び方が一般的になるのは1970年代に入ってからである)。

海外でこのような超小型鉄道模型(当時の感覚としては)であるNゲージが製品として発売されるようになったことは日本でも『鉄道模型趣味』誌(以下、TMSと略)等で紹介され、熱心な工作派モデラーである池末弘が国鉄C59形蒸気機関車をスクラッチビルドしてTMS誌に発表し、大きな反響を巻き起こしたのもこの頃である。
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1960年代・日本での量産開始 [編集]
海外で9mmゲージが登場してから程なくして日本でもこの規格の鉄道模型を製品化しようとするメーカーが現れた。 1963年頃に 玩具メーカートミー(TOMY、現タカラトミー)の前身富山は「高級電気玩具 OOO(スリーオー)ゲージ 新幹線 夢の超特急セット」を発売した。新幹線3両編成に線路とパワーパックを加えたセットで、ロンスターの「Treble-O-Lectric」シリーズを参考にした当時としては画期的な電気玩具だったが、実験的なものであってそれ以上の展開は無かった。

1964年8月には音響/通信機メーカーのソニーが鉄道模型専門の子会社マイクロトレーンを設立し、ソニーのエレクトロニクス技術を生かして一般家庭まで流通可能な鉄道模型の量産を計画した。 マイクロトレーン社はソニーマイクロトレーンのブランド名で国鉄ED75形電気機関車と国鉄スハ43系客車 (短縮型・ショーティー)、線路とパワーパックを開発し、製品のサンプルが配布された。しかし、当時のソニーの社内事情によりマイクロトレーン社1965年10月末に解散を決議、計画は中止され、金型は廃棄された。井深大が関水金属のC50の出来栄えのよさに驚嘆し販売中止を命じたとも、アフターサービスに掛かる経費の問題から中止となったとも言われる。

富山の製品は実際に発売されたと考えられるが、1990年代に雑誌に紹介されて初めて存在が一般に知られた製品であり、当時の販売状況も不明である。 一方のソニー・マイクロトレーンは実際に発売されたものではない。したがってこの時点ではまだ日本国内の9mmゲージは普及はおろか製品を見たことがある人がどの程度いたかという状況であった。

1965年からは「関水金属」(KATO、カトー)が国鉄C50形蒸気機関車オハ31形客車、線路を順次発売した。 関水金属は優れた模型製作者としても知られる加藤祐治が創業した鉄道模型メーカーで、前身の加藤金属時代に市販された製品の優秀さ、特に台車の走行性能の高さは国内外によく知られていた。当時国内有力メーカーに鍛造 (ドロップフォージング)製品を納入していた同社は金属加工技術を生かしてあらたにプラスチック射出成型による自社ブランドでの小型鉄道模型の生産を計画、HOゲージ・TTゲージ・9mmゲージで試作品を製作し、『鉄道模型趣味』の主筆山崎喜陽のアドバイスを得て9mmゲージ・1/150での製品化を決定した。C50はこの規格をもとにしたスケールモデルとして発売されている。日本メーカーの9mmゲージ製品が本格的に流通したのは関水金属製品が初めてであり、1965年は日本におけるNゲージの創始として語られることが多い。また、後に参入したメーカーは関水金属の規格に倣って製品を設計したため関水金属の規格が日本におけるNゲージの標準規格となった。

(なお1967年まで関水金属の正式社名は「関水金属彫工舎」であるが広告の表記は1965年当時から「関水金属」である。)
当時日本では、0番ゲージに代わってHOゲージとも呼ばれる16番ゲージがようやく鉄道模型の主流となった状況であり、さらに小形の9mmゲージの登場は特異なものとして迎えられた。加藤はC50を「グリコのおまけ (キャラメルのおまけ)じゃないか」 と言われがっかりしたと当時を証言している。一方、アメリカでの評価は高く、C50形も海外向けのほうが格段に多く売れた。そのため関水金属は1968年に出荷されたALCO PA-1と貨車を最初としてアメリカ形Nゲージの製造も開始し、当時の外国メーカーと同様に北米大陸に市場を求めNゲージ事業を継続した。

1960年代から1970年代初頭まで関水金属が日本でほとんど唯一のNゲージメーカーだった。デパート等の売り場では、西ドイツのアーノルト (Arnold )、ミニトリックス (MiniTrix)」、イタリアのリマ (Lima)等の海外製品が輸入販売された。関水金属が発売した日本形も限られていたため、日本で最初期にNゲージを購入した世代は海外製品を日本型に見立てたりあるいは無国籍的に楽しんだ。モデラーのなかには改造や自作により製品にない形式を製作する者も現れ、模型雑誌での作品の掲載を通してNゲージの車輛工作も徐々に浸透していった。

1968年に関水金属の加藤祐次は欧州を訪れ当時各社ごとにバラバラであったNゲージカプラー (連結器)の統一を提案した。ニュルンベルクのトリックス本社に各国のNゲージメーカー、バイヤーが集まり協議を行った結果、Nゲージカプラーの標準をアーノルトカプラーに統一することが決定された。アーノルトカプラーは現在においても各メーカーが装着する標準カプラーであり続けている。

2009年03月07日

ロング・アイランド (護衛空母)

ロング・アイランド(USS Long Island, AVG-1/ACV-1/CVE-1)は、アメリカ海軍最初の護衛空母。その名を持つ艦としては2隻目。主として実験や訓練に使用された。

イギリス海軍は第二次世界大戦の開戦直後からドイツ海軍潜水艦の襲撃に悩まされ、客船を小型空母に改造する護衛空母オーダシティ(HMS Audacity)を計画していた。

また同時期にフランクリン・ルーズベルト大統領は海軍作戦本部の作戦部長ハロルド・スターク海軍大将に船団護衛を目的とした商船を改造した小型空母の建造を提案し、アメリカ海軍は貨物船を護衛空母に改装して、これのテストを試みた。
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イギリスで護衛空母オーダシティの実績やロング・アイランドのテスト結果から、このような小型空母でも対潜攻撃だけでなく防空にも使えることを確認し、ロング・アイランドの運用実績は後に建造される護衛空母の基礎となった。

艦歴
艦はペンシルバニア州チェスターのサン造船ドライドック社で海事委任契約の下、モーマックメール(Mormacmail)の艦名で1939年7月7日起工し、1940年1月11日にディアン・B・ホールトによって進水、1941年3月6日に海軍に引き渡され護衛空母に改装、1941年6月2日に初代艦長ドナルド・B・ダンカン大佐の指揮下、「ロング・アイランド(AVG-1)」として就役する。日米関係が緊張していた数ヶ月間にロング・アイランドは、護衛空母による航空機運用の可能性を実証する実験を行うため、バージニア州ノーフォークを出航した。

12月8日、太平洋戦争の勃発時、ロング・アイランドはニューファンドランドで商船団を護衛していた。1942年5月10日、アメリカ西海岸へ向けて出航する前にノーフォークでパイロットを乗艦させ、6月5日にサンフランシスコに到着する。ロング・アイランドはニミッツ提督の太平洋艦隊に配属され、ウィリアム・S・パイ海軍中将の戦艦4隻に同行した。また、太平洋戦線ではミッドウェー海戦で勝利を収めた機動部隊の航空援護を行った後、第2次ソロモン海戦の最中にガダルカナルの戦いで日本軍から奪取した直後のヘンダーソン飛行場に初の基地航空部隊となる海兵隊2個飛行中隊の輸送に成功している。

その後、ロング・アイランドは1942年9月20日に太平洋戦線を離れ、パイロット養成訓練を再開するため西海岸へ帰投した。1946年に退役後、大西洋航路の移民船・練習船・大学寮として使用され、1977年に解体された。

2009年02月18日

ワーズ・ワース

どこかの世界の、いつかの時代。
スキミン ソーター ブロッキ レニア ツーリング ナスカ イジェクト ビッグ カット 管弦楽団 ユース イブ日本 バンコ ゾーニング フルスピ モンテ サクラ キット モメンタム スラング 波間 ヒロポン ハシソウ プレース ジャル めんだ トラベラ パロディ タイプ オーバー ウィグ パキラ そらち ダラー シロッコ バーベナ ダーク フリー スーツ マウス ネクタ ネチズ ヨット バリ デリン ブルーデー フェルト イーブン ブライ にしままい

剣と魔法が普通に用いられるそこには、地上に住む「光の一族」、地下に住む「影の一族」という2つの部族があった。互いを不可侵として平和な日々を送っていた彼らは、間に置かれている「ワーズ・ワースの石板」と呼ばれるものを自分達の守護神と定め、信奉していた。その石板には不思議な記号が記されているが、何故かどちらの部族にもそれを読める者は存在しない。そんなある日、何者かがワーズ・ワースの石板を砕き、その破片を影の一族の住まう地下城の各所へバラ撒いてしまった。

どちらも自分達の仕業ではないと主張する光の一族と影の一族は、果てには互いを犯人と決め付けてしまう。この時を境に、2つの部族は長きに渡る熾烈な戦いへと身を投じたのである。それから、100年以上が過ぎた。

影の一族の王・ウォトシーカに溺愛されている一人息子にして主人公・アストラルには、友人達と共に戦うことも許されず、いつも地下城の中心部で比較的非力なモグラやクモを相手にする、退屈な毎日しか与えられない。婚約者である美女・シャロンにも、歯痒さを通り越して見放されつつあった。

だが、ある日…。

影の一族
生物学的に人間とされる種だけではなく、獣人やモンスターとされる種も含め、構成されている。また、光の一族の何倍にも渡る寿命を持つ。

アストラル
声 - 園村健
主人公。影の一族の王子。当時のエルフ作品の定番どおり一見冴えないキャラクターだが、シナリオが進むに連れて頭角を現していく。また、精力も定番どおり絶倫。シナリオ後半では、ポルックスと名乗ることになるが…。
シャロン
声 - 仲水里江
ヒロインの1人。凄腕の剣士で、主人公の婚約者。自分より強い男にしか興味を示さない性格。王子という立場からも実戦に参加できないアストラルには歯痒い思いをしているが、彼の上達に伴い見直すことになり、やがて…。
ニーナ
声 - 中野恵美
ヒロインの1人。猫系の獣人の少女。地下城にある剣士訓練所に勤めている。アストラルに想いを寄せており、献身さでは他の誰よりも上。そして…。
DOS版での髪色や服装はラム (うる星やつら)のパロディーであるが、Win95版へのリメイク移植に当たってはパロディー色を全て払拭し、より獣人らしい容姿へと変更された。
カイザー
声 - 沢田丈一
一族最強の剣士。非の打ち所の無いキザな美形であり、その実力もあって主人公のことは蔑視している。シャロンに好意を持っている。
スタリオン
声 - 古本信也
アストラルの友人。馬系の獣人で、頭部は馬そのもの。「種牡馬」を意味する名前どおり、性欲の権化と言っても過言ではない。戦いの最中に光の一族の美女を捕らえては、強姦することが生き甲斐。
ハイド
声 - 詩子
アストラルの友人。俊敏な体術を活かしての探索が得意だが、好戦的な者が多い影の一族にしては優し過ぎる性格が欠点。
カトラ
声 - 高島勉
アストラルの友人。いわゆるスケルトンの騎士だが、表情は豊か。
デルタ
声 - 詩子
シナリオ後半から登場。戦力としては全く役立たずの美女で、専らエロ専門の役回り。
キャロット
声 -
妖精。他力本願な性格。掌に乗るほど小さい少女の姿をしており、ウィリアムに狙われる。
ウォトシーカ
声 - 所沢隆士
影の一族の王で、アストラルの父。常に玉座に腰掛けて戦いの行方を見据えながら、息子の心配ばかりしている。
テッシオ
声 - 長嶋聡一
ウォトシーカの側近。いかにも小悪党といった様子を漂わせながら、常に玉座の横で控えている。
ワイス
声 -
主人公に様々な助言を与えてくれる、気さくな老人。DOS版では男(ワイスじいさん)だが、Win95版やXP版では女(ワイスばあさん)。
アリアドネ
声 - 河山佳乃
あるキャラクターが産み育てた幼い娘で、シナリオ終盤の重要な存在となる。

光の一族
影の一族と違い、生物学的に人間とされる種のみで構成されている。寿命は現実世界の人間と同じ。

マリア
声 - 芳田愛姫
女魔導師。容姿こそ男の目を惹く淑やかな美女だが、侮ると痛い目を見る実力の持ち主。生真面目かつ潔癖で、争いを好まない性格。
ダルク
声 -
精悍で勇敢な女剣士。しかし、名乗りの割には貧弱。
シルヴァーナ
声 - 山野美々
男言葉を使う強気でお転婆な女剣士。最強と名乗る割には弱く、アストラルにも歯が立たない。ダルクと組んで再戦を挑むが、2人とも…。
サブリナ
声 -
女騎士。剣の腕前はそれなり。シナリオ前半で影の一族から受けた拷問の影響か、後半では何かに付けて拷問を行いたがるようになる。
ペルシャ
声 -
サブリナの部下を務める女剣士。戦いには向かない穏やかな性格で、専ら苛められ役。Win95版、XP版、アダルトアニメ版ではペルシア。
ベルベル
声 -
妖艶かつ淫乱な女魔導師。キノコを使った魔法を好むが、その副作用を解除するために行ったアストラルとのセックスが元で、老化が極端に遅くなってしまう。
クラブ
声 - 陶山章央
トラップの名人。大口叩きの小悪党。
ノーマン
声 -
剣士。かなりの見栄っ張り。必殺技は某有名漫画作品のそれのパロディー。
エポ
声 -
褐色の肌が眩しい女剣士。豪気さと淑やかさの二面性を持つが、剣の腕前は彼氏のノーマン共々今一つ。シナリオ後半では剣士を引退し、道具屋へと転職する。
DOS版での容姿は某TVアニメ作品のヒロインのパロディーである(会話内容にもそれを伺わせる箇所が存在する)が、Win95版へのリメイク移植に当たってはパロディー色を全て払拭した容姿へと変更された。
ミュー
声 - 山野美嶺
ヒロインの1人。マリアの娘。母譲りの美貌を持ち、大人しい性格。ポルックスへ一途な想いを寄せるあまり、大胆な行動に出ることも…。
ベガ
声 -
ダルクの娘。美貌と性格と剣の腕前は母譲りだが、結婚願望は非常に強い。
エオリア
声 -
シルヴァーナの娘。美貌と性格は完璧に母譲り。故に剣の腕前も…だが、媚薬を飲まされると、母以上に貪欲な性癖が露となる。
リタ
声 - 千代
サブリナの娘。戦いには消極的で、非常に臆病な性格。剣の腕前も母には大きく劣る。
アルゴ
声 -
剣士。金への執着心が強く、戦いの目的もそれ。
リゲル
声 -
剣士。女への執着心が強く、戦いの目的もそれ。
ファブリス
声 - 藤木郁也
カイザーやシャロンも敵わない一族最強の実力を持つ、熟年の剣士。しかし、性格はどこか間が抜けている。実力を上げたアストラルに片腕を斬り落とされたことが元で剣士を退き、シナリオ後半では王座に就く。
ウィリアム
声 -
ファブリスの息子で、ミューの婚約者。お坊ちゃま育ちの弱虫である上、実力は皆無。また、ロリコンの気がある。
メンザ
声 - 長田雄裕
ファブリスの側近。テッシオ同様の怪しい雰囲気を持つ。

ワーズ・ワースの人々


『野々村病院の人々』とのクロスオーバー番外編。XP版でのみプレイ可能。シナリオは2部構成になっており、前編は『野々村病院の人々』の主人公である海原琢磨呂が『ワーズ・ワース』の世界を、後編は『ワーズ・ワース』のヒロインの1人であるシャロンが『野々村病院の人々』の世界をそれぞれ巡る。ゲームシステムは前編が『ワーズ・ワース』、後編が『野々村病院の人々』に準拠。

なお、XP版のパッケージ原画も含めて描き下ろし部分のシャロンは『ワーズ・ワース』本編とはやや異なる絵柄で描かれているが、これはWin95版から5年が経過したことで、りんしんの絵柄が変化していたためである。

2009年01月28日

九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)

九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)は、天正14年(1586年)7月から天正15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏との戦いの総称である

九州地方は当時、薩摩の島津氏が日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配が緩んだ筑後の諸国人衆も傘下に収め、九州統一目前まで進んでいた。 豊後の大友宗麟は、その島津氏の圧迫を回避するため、当時近畿、四国、中国を平定し天下統一の道を歩んでいた秀吉に助けを求めることになる。

これを受け秀吉は、1585年(天正13年)10月島津氏に降伏を勧告するが(惣無事令)、島津氏はこれを拒絶した事から始まる。
ピンク バター 天使ノタ マルチ 華の段 メロン カーリング ゲットー バイオガス ハンカチ ハンドマ チューリン バナナ レパシー サープラ ロザリ キンリー ウエス シェリフ アンソ チェロ さらくやし ピーエル ギング モノキ トリポ ラップカ ハイデ 枸橘 高麗人参 リベラル ワイル ブレーキ ちょうせき トレーダー カモミー アージュ リム いっきく おのえ フィナーレ ゴニウム ノギス ソフト スポイル マベパール ラクトース きわの マフィン ングイン

島津氏は、九州統一の総仕上げとして、大友氏所領である豊前・豊後と筑前への侵攻を開始した。 秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたかった島津義弘は1586年(天正14年)6月筑前侵攻を開始、筑前の西半を制圧する。残るは高橋紹運の守る岩屋城、立花宗茂の守る立花城、高橋統増の守る宝満山城のみであった。7月、3万以上の大軍で岩屋城を攻めた島津軍だったが(岩屋城の戦い)攻めあぐねた末、高橋紹運の玉砕の後なんとか攻略する。島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す大誤算だった。直後に宝満山城も陥落させたが立花城は諦め包囲を解き、豊後侵攻へ方針を転換した。この際立花宗茂は撤退する島津軍を追い高鳥居城、岩屋城、宝満山城を奪還している。

一方、秀吉は同年9月に毛利氏に出陣を命じ豊前へ向かわす、長宗我部氏にも大友氏と合流させ作戦を開始、島津氏の豊後侵攻軍と正面衝突することとなる。最初のうちは、大友氏の内訌等もあり、島津氏優勢に進行。特に12月戸次川の戦いにおいて、仙石秀久を軍監とする豊臣方は長宗我部元親の長子信親、有力武将十河存保を失うなど大敗を喫した。島津軍は勢いづき義統が放棄した府内城を陥落させて、宗麟の守る丹生島城を包囲した。

丹生島城では、宗麟がポルトガルより輸入し「国崩し」と名付けた仏郎機砲(石火矢)の射撃もあり、なんとか持ち堪えた。宗麟は秀吉に出馬を何度も即した後、翌1587年(天正15年)正月、秀吉は九州侵攻の軍令を下し、3月には自らも出陣、肥後方面を秀吉が、日向方面を弟秀長が率い、合わせて20万を数える圧倒的な物量と人員で進軍した。秀吉上陸を察知した島津軍は北部九州を半ば放棄、島津氏の支配が表面的な占領軍政に過ぎなかったこともあり、瞬く間に島津氏の支配している城を陥落させる。島津氏は、後退を続け薩摩の守りを固める方針に変更する。秀長率いる軍は豊後を経由し日向に入ると県を経由し山田有信の守る高城を包囲する。島津義弘が救援に向かうが根白坂の戦いで島津忠隣が戦死するなどの大敗を喫した後、高城が陥落さらに秀次は都於郡城を攻略し薩摩に侵攻する。義弘は飯野城に籠り徹底抗戦を装う。一方秀吉は秋月種実の岩石城を攻略、島原方面では有馬晴信の調略に成功する。島津忠辰は高田を放棄して出水にまで撤退する。秀吉は八代、水俣を経て島津方の予想を上回る速さで出水にまで進軍し出水城主、島津忠辰は降伏する。さらに島津忠長を蹴散らし川内、泰平寺に本陣を置く。

4月、島津義久が泰平寺に赴き降伏した。戦いが始まり半年あまりであった。島津氏は九州の大部分の支配地域は召し上げられたが、義久が下った後も、飯野城に籠った義弘、婿養子の忠隣を殺された歳久らの抵抗が続き、石田三成と伊集院忠棟による戦後処理の結果、薩摩、大隅の2国を安堵され九州征伐は終える。

秀吉は秀長を通じて戸次川の戦いで嫡男、信親を失った長宗我部元親に大隈一国を与えようとしたが固辞している。

なお、戦後の処理によって島津氏と結んでいた筑前の秋月種実が日向に移封され、大村氏との対立から長崎港の襲撃や南蛮船からの通行料徴収を強要などを繰りかえしていた深堀純賢を海賊禁止令違反として所領没収にするなどの処分が行われている。
戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)は、豊臣秀吉による九州平定の最中である天正14年12月12日(1587年1月20日)に、島津家久(島津義久の弟)率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保率いる豊臣勢の間で行なわれた戦い。

合戦まで
1586年に入ると、九州制覇の野望に燃える島津勢はいよいよ宿敵・大友氏を滅ぼすべく、その領土への侵攻を開始した。耳川の戦いの大敗や立花道雪の死など悪条件が重なって、もはや独力で島津軍に挑む力も無かった大友宗麟は、当時の天下人であった豊臣秀吉に臣従することで援軍を求めた。秀吉も、いずれは九州平定を果たすことを想定していたため、これを好機とばかりに宗麟の要請を受け入れた。ただし、当時の秀吉は三河の徳川家康と敵対関係にあったため、大規模な援軍を送ることができず、援軍として仙石秀久を軍監とした長宗我部・十河らの四国勢を豊後に派遣した。

一方の島津軍の勢いは凄まじく、大友領はたちまちのうちに島津勢によって侵食されていった。1586年12月初旬には大友氏の家臣・利光宗魚が守る鶴賀城(現在の大分市上戸次利光付近)が島津勢によっていよいよ包囲されたのである。この城は一度は島津勢に占領されたが、島津勢の兵力が薄くなった隙を宗魚に突かれて奪還されていたものである。宗魚は懸命に防戦し島津勢に3000余の大損害を与えたが、運悪く流れ弾に当たって戦死し、鶴賀城は落城の危機に立たされた。この城が落ちれば、大友氏の本拠である府内も危うくなる。鶴賀城からの救援を要請された義統は、豊臣勢の援軍を引き連れて鶴賀城を助けるはずだったが、自身の戦意は沈滞気味であった。

島津勢は1万余であったとも言われている。島津勢は豊後侵入時より半分近く兵力が減少していたが、大友を離反した勢力などを加えており、若干兵力が回復していたとも言われている。大友勢か豊臣勢が後詰でやってくるであろうと予測していた家久は、軍勢を右翼2000、主力3000(実際は倍の6000だが、半分は鶴賀城監視や伏兵にまわす)、左翼5000の三手に分けた。軍勢を三手に分けて合戦に挑む戦法は、俗に島津得意の「釣り野伏せ」と呼ばれているが、この場合は伏兵をあまり使わないパターンである。家久は分けた軍勢を、豊後国戸次川(大分市戸次付近の大野川の古称)と鶴賀城の間に並べ、しかも豊臣勢が渡河してくるであろう場所に待ち構えていた。家久自身は鶴賀城を見下ろす梨尾山に本陣を置いた。

豊臣勢は兵力2万とも言われていたが、義統が動かなかったこともあって、即座に使える兵力は半分以下だった。島津勢を蹴散らすためには、何としても義統率いる大友勢が必要だったが、秀吉の威を借り功を焦る軍監・秀久がほとんど独断的に鶴賀城救援のための出陣を決した。陣容は、秀久の淡路勢1000余、存保・尾藤知定が率いる讃岐勢3000余、長宗我部父子の土佐勢3000余の計6000余。

合戦の経過
秀吉の出陣も無く、代わりに指揮を任されたのが仙石秀久である。先の四国征伐の功で讃岐高松10万石の領主となっていたが、着任して日が浅く、その中核となる直軍を含めて寄せ集めで団結力に乏しかった。従軍した四国大名の士気も、それに輪をかけて高いとは言えなかった。さらに救援に出迎えた大友勢も、道案内役の戸次統常率いるわずかな兵であり、島津勢に比べ兵力でも劣っていた。功に焦った秀久は状況を打開すべく、先勝を挙げて士気を高めようとした。無謀にも冬季の渡河作戦を決行し、12月12日早朝、戸次川を挟んで両軍が対峙した。夕刻になって最初に交戦したのは島津勢左翼の伊集院久宣と、淡路勢であった。戦況は、緒戦は家久が狼狽するほど豊臣勢が押し気味であったが、淡路勢が深追いしたところに主力の新納大膳と右翼の本庄主悦が雪崩れ込んだ。淡路勢は潰滅し、人数に劣る秀久勢はあっという間に浮き足出たせ遁走する事となった。勢いに乗る島津勢は、淡路勢に続いていた第2陣の讃岐勢・信親勢を伏兵と共に包囲殲滅した。信親・存保は、戸次川の中で戦死したと伝えれている。元親の第3陣は、合戦することもなく敗走した。秀久は諸将の軍を差し置いて、小倉城に撤退。その後、讃岐へ逃げ帰るという醜態を晒す事となった。

この大勝に乗じた島津勢は鶴賀城を落とし、翌13日には府内に侵入。義統は万策尽きて豊前に逃走し、島津勢は実質、豊後を平定した。

帰還後、仙石秀久は敗戦の責を問われ、秀久の所領没収ならびに改易処分となり高野山へ追放された。